ハンJ速報

日本の風土と文化を愛し、皇室を尊ぶ愛国系まとめブログです。本当の意味で日本を愛することの大切さを発信していきます

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    1 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2020/07/16(木) 03:07:16.00 ID:y24ECClN0.net 
    慰安所は強姦防止に役立っていたか?

    役立っていません。なぜかと言うと、慰安所に行って1円50銭払うんだったら、強姦はタダです。われわれの月給というのは、だいたい一等兵で8円80銭くらい。
    上等兵で11円くらい。その中から強制的に貯金をさせられるんです。ですから金があまりありませんでした。1円50銭払うんだったら、作戦に行って強姦した方
    がタダだというような考えがありました。
    私も強姦に加わったことがあります。昭和18年に作戦にまいりましたが、その時にある部落で若い兵隊が1人の若い女性を連れてきました。21、22歳くらいで
    しょうか。それを、6人の兵隊でくじ引きで順番を決めて、1人1人、その女を強姦しました。こういう事実がございました。


    強かんについて、軍隊はどのような指示を出していたか?

    昭和14年から15年、当時日本では「産めよ 増やせよ」というスローガンがありました。男の子が生まれたなら労働力にも戦力にもなる。女の子だったら、将来
    のいわゆる(戦力の)再生産になる。だから子どもをどんどん産みなさい。そうすれば日本はどんどん栄える。こういうスローガンがありました。だからそのつも
    りで戦地に行きました。ところが戦地では命令がくるっと変わりました。中国の女は殺せ、子どもを産むから殺せ。子どもが大きくなったらわれわれに反抗するか
    ら、子どもも殺せ。そのように、上官の命令がくるりと変わったんです。
    そういうことですから、どうせ殺すのならどんどん強かんしてもいい、そういう考えで、私たちは強かんしました。

    なぜ、強姦したのか?

    強姦についてですが、陸軍刑法では強かんは7年以上の刑、現場にいただけでも4年以上の刑罰になると聞いていました。なのになぜ私たちが強姦したかという
    と、確かに金の問題もありますが、それだけではありません。現在、私たちは中国人と言っていますが、当時は「支那人」、あるいは差別的に「チャンコロ」と言
    っていました。「チャンコロの女を殺して何が悪いんだ。どっちみち殺すんじゃないか」という気持ちを持って強姦したわけです。したがいまして、中隊長ある
    いは大隊長でも自分の部下が、たとえ強姦罪を犯しても陸軍刑法を持ち出さない。(軍法会議にかけられたら、上官の教育が悪いとして)自分の功績に関係しま
    すから。
    そしてもう1つは、「チャンコロ」だという劣等視があるんです。だからわれわれ兵隊はできうる限り強姦をしたんです。

    なぜ、このような証言をするのか?

    正直なことを言いますと、私も自分の妻や娘にこういうことは一切話しておりません。実際、できないんです。しかしながら、私たちがやったことについて、どれだ
    け中国人民が泣いていたのかということを、私たちは撫順の戦犯管理所でしみじみと分かったんです。これからは二度とこういうことを起こしてはならない。これ
    を止めるのは、現在残されている私たちしかいないんだ。こういう気持ちから、この問題を皆さんに聞いてもらいたいと思いました。

    【元日本兵】金子安次
    金子安次氏は、2000年に開かれた女性国際戦犯法廷で証言した。以下はその時の証言概要を整理したものである。

    http://fightforjustice.info/?page_id=458

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    1 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイW bdc5-uNgS):2020/07/14(火) 09:47:11  ID:1xsvgeYI0.net
    小池知事「冷房と暖房を」GoTo観光支援策批判
    [2020年7月14日9時17分 ]
    https://www.nikkansports.com/m/general/nikkan/news/202007140000093_m.html
    2 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です (ワッチョイW bdc5-AXAe):2020/07/14(火) 09:47:42 ID:1xsvgeYI0.net
    東京都の小池百合子知事は13日、菅義偉官房長官が感染確認の急増を「東京問題」と表現したことに対して「国の問題」と、反発した。

    感染者が全国で再び増加している中、政府が旅行を促進する「Go To キャンペーン」の前倒しを発表したことにかみつき
    「冷房と暖房の両方をかけるようなこと」と、批判した。

    2人はもともと折り合いが悪いとされてきたが、コロナ禍で連携するべき政府と東京の足並みの乱れが、思わぬ形で表面化した。

    国と東京都の間で新たな火種となった「東京問題」は、菅氏が11日、北海道での講演で発言。
    「この問題(コロナ感染の急拡大)は圧倒的に『東京問題』と言っても過言ではないほど、東京中心の問題になっている」と述べたものだ。

    小池氏は13日、取材に「逆に言えば、圧倒的に検査数が多いのが東京だ」と菅氏の発言に反論。
    「それによって陽性者が出てきており、無症状の方がかなり含まれていることが分かってきた」と訴えた。

    収まらない小池氏は、東京を中心に全国に感染確認が広がるタイミングで、政府が観光割引事業を22日から始めることに言及。

    「逆に『Go To キャンペーン』が始まろうとしている中、その辺の整合性を国としてどう取っていくのか。体調不良の方は都外へお出かけにならないよう伝えているが、
    無症状の方も出ている中、どう仕切りをつけていくのか」
    と指摘。
    「冷房と暖房の両方をかけるようなこと」と不快感を示し「これはむしろ国の問題だ」と、やり返した。

    小池氏の国会議員時代から、関係が良くないといわれてきた2人の舌戦。
    菅氏が、都の責任を問うような表現を使うのは「小池氏は各区任せで、都内で統一的な対応が取れていない」(都議)との不信感があるためとの見方もある。

    菅氏は会見で「東京問題」発言について「全国の新規感染者の半数以上が都で、クラブなどの店舗数が多いことも踏まえた」と説明した上で、都や区との連携を強調。
    小池氏がかみついた「Go-」の開始延期については「全く考えていない。適切に実施したい」と述べ、
    小池氏の反論には「政府の立場でコメントすることは差し控えたい」と、多くを語らなかった。

    国と都の間では、都民に他県への不要不急の移動自粛を求めた小池氏に対し、政府は県またぎの移動を容認するなど、ちぐはぐなやりとりが続く。
    ただ、コロナ禍に加え豪雨災害が続く中の「Go-」実施には、さらなる感染拡大や混乱への懸念が強いのも確かだ。

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    1 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です:2020/07/11(土) 05:41:06  ID:●.net
     白 善※(※火ヘンに華)(ペク・ソンヨプ=韓国の元軍人、朝鮮戦争の英雄)韓国メディアによると、10日、持病のため死去、99歳。

     
    日本の植民地時代に現在の北朝鮮西部・平安南道で生まれ、満州国で軍官学校卒業後、抗日ゲリラ掃討部隊に配属。
    終戦後は北緯38度線を南に渡り、韓国で軍創設に尽力した。朝鮮戦争(1950~53年)では数々の戦闘で功績を挙げ、
    陸軍参謀総長や韓国陸軍初の大将に昇進。「朝鮮戦争の英雄」と呼ばれ、米軍との関係も深かった。

    軍退役後は中華民国(台湾)やフランスなどの大使を歴任。朴正煕政権で交通部長官を務め、70年の日航機よど号ハイジャック事件の対応にも当たった。 

    https://news.yahoo.co.jp/articles/562be50a7031abfd2abf6d7e33f594b08720b650

    (※まとめ補足)
    朝鮮日報社説
    https://news.yahoo.co.jp/articles/bcdfee6af9976a578ddb55ddd382b124155dc39b


    享年100歳でこの世を去った6・25戦争の英雄、ペク・ソンヨプ予備役大将に各界から弔問と哀悼の声が相次いでいる。ペク将軍がいなければ、今日われわれが享受している自由と平和と繁栄はなかったし、大韓民国そのものが存在しなかっただろう。70年前に破竹の勢いで押し寄せてきた北朝鮮軍の前で、洛東江に最後の防衛戦を敷いたペク将軍は、恐怖におののく兵士たちに「われわれが引き下がれば米軍も撤収する。私が後退したらおまえたちが私を撃て」と言って先頭に立って突撃した。ペク将軍は8000人の兵力で北朝鮮軍2万人の総攻勢を1カ月以上防ぎ、戦況をひっくり返した。奇跡のような出来事だった。ペク将軍は仁川上陸作戦成功後、米軍よりも先に平壌に入城し、1・4後退後のソウル奪還の際にも先頭に立った。

    ペク将軍は韓国軍創設にも参加し、休戦会談では代表を務め、韓国軍初の大将になり、陸軍参謀総長に2回就任するなどして韓国軍を再建した。韓国軍を「民兵隊」のように扱っていた米軍も、ペク将軍にだけは「最高の野戦指揮官」として尊敬の念を惜しまなかった。在韓米軍司令官が新たに任命されたときは、必ずペク将軍を訪問して転入を報告し、米陸軍歩兵博物館には彼の肉声による証言が永久保存されている。「6・25の生きた伝説」「救国の英雄」「韓米同盟のシンボル」など、ペク将軍を説明する多くの言葉をいくら使っても、彼の業績を全て説明するのは難しいほどだ。

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