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投稿者:ハンJ太郎

9月1日で関東大震災から99年。毎年この時期になるとウヨさんがこの手のデマを主張するのが恒例行事なので今年もこの記事を再掲載。内閣府の報告書からいくつか追記を入れています


2: マンセー名無しさん 2018/08/22(水) 21:08:43.63 ID:r1dCIRQK
ネトウヨは関東大震災時の新聞記事を出して
「朝鮮人暴動の証拠!」と意気がるが
1926年発行の公式記録「大正震災志」でとっくに否定されてるデマ記事


(※まとめ補足)
大正震災志は関東大震災の3年後1926年に当時の内務省が発行。国立国会図書館デジタルコレクションにアクセスすると読むことができる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981915 

270ページから

「交通通信がすべて途絶した当時であるから、東京横浜市民さえ、眼前の惨害より他の一切は全く知らなかった。まして他地方の人達はただただ張膽駭目するのみで、あせりにあせってもその被害状況をつまびらかにし得なかったのである。当時各地方新聞が号外もしくは本紙において報道したものの中には、随分思い切ったものがあった。その中より数種を転載して、当初暗黒の状をしのぶ一端とする」

として、特に酷かったデマ記事一覧を数ページに渡って紹介している。読み進めると「富士山噴火」「皇居を京都に移すことに決定す」などの滑稽無形な見出しに交じって朝鮮人暴動の記事(ネットで頻繁に貼られる『横浜戦闘開始、一個小隊全滅』など)が多数見られる
(参考:当該箇所1ページ目↓クリックで拡大)
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警視庁の「大正震災火災誌」でも当時のデマを指摘。表は内閣府まとめより
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デマを否定する警視庁のビラ
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東京地方裁判所の検事正が出した声明
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内閣府が2007年に出した報告書
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html
(本文の第4章第2節「殺傷事件の発生」から抜粋)
軍や警察の公的記録では作業量が大きかった朝鮮人の保護、収容が強調されるが、特に3日
までは軍や警察による朝鮮人殺傷が発生していたことが東京都公文書館所蔵の「関東戒厳司令
部詳報」の「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」(『関東大震災政府陸海軍関係史料』第二巻
に翻刻、以下「兵器使用一覧表」と略称。東京都公文書館所蔵の原本は現在公開が停止されて
いるが、同館の協力により個人名を抹消した電子複写を閲覧して校合した)から確認できる。

(中略)

民間人による殺傷行動についての官庁資料で最も網羅的なものは、震災直後に内務大臣を務
めた後藤新平の文書中に残る「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」(『現代史
資料(6)関東大震災と朝鮮人』に翻刻、以下「刑事事犯等調査書」と略称。なお、後藤新平
文書を引き継ぐ後藤新平記念館、市政専門図書館では現在原本を確認できないので翻刻による)
である。これは司法省が作成したもので、火災の原因、朝鮮人犯行の流言、朝鮮人の犯罪、朝
鮮人・朝鮮人と誤認した内地人・中国人を殺傷した事犯、治安維持令違反、暴利取締令違反、
社会主義者の行動、軍隊の行為、そして、警察官の行為、と章を分けている。1923(大正12)
年11月15日現在の調査結果を中心に作成されているところから、同年12月の帝国議会開会を前
に議会で問題となりそうな課題について、司法省としての見解をまとめたものと思われる。

この資料によれば、朝鮮人による殺傷事件は殺人2件、傷害3件が記録されているが、すべ
て被疑者不詳であり、殺人に関しては被害者も不詳である。このため、起訴には至らなかった
と考えられる。流言にあった蜂起、放火、投毒等については、「一定の計画の下に脈絡ある非行
を為したる事跡を認め難し」と否定している。検察事務統一のため、9月11日に臨時震災救護
事務局警備部で開催された司法省刑事局長主宰の司法委員会会同で、朝鮮人の「不逞行為に就
ても厳正なる捜査検察を行ふこと」が決議され、翌日各主務長官の承認を得て実施されている
(「関東戒厳司令部詳報」)。この方針に従って調査したものの、上述の程度にしか確認できな
かったということである。 

(背景についても記述がある。繰り返しになるがこれは内閣府の報告書)
2日午後以降に発生した広範な朝鮮人迫害の背景としては、当時、日本が朝鮮を支配し、その植民地支配に対する抵抗運動に直面して恐怖感を抱いていたことがあり、無理解と民族的な差別意識もあったと考えられる。歴史研究、あるいは民族の共存、共生のためには、これらの要因について個別的な検討を深め、また、反省することが必要である。一方で、防災上の教訓としては、植民地支配との関係という特殊性にとらわれない見方も重要である。時代や地域が変わっても、言語、習慣、信条等の相違により異質性が感じられる人間集団はいかなる社会にも常に存在しており、そのような集団が標的となり得るという一般的な課題としての認識である。 

(当時の日本政府も深刻な事態として捉えていた)
朝鮮人被殺害者数の全体について、朝鮮総督府の記録によれば、10月22日現在、内務省は「朝鮮人被殺人員」を約248名と把握していた。しかし、朝鮮総督府東京出張員はこれを前提に「内査したる見込数」として、東京約300、神奈川約180、埼玉166、栃木約30、群馬約40、千葉89、茨城5、長野3の合計約813名を挙げている(大正12年12月朝鮮総督府警務局,「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル影響」,斉藤実文書,『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅳ』影印)。内務省の把握が部分的であることは、当時の植民地官僚の目にも明らかだったのである。その後、総督府は震災による朝鮮人の死者・行方不明者を832名と把握して、1人200円の弔慰金を遺族に支給した(大正13年6月,朝鮮総督府官房外事課,「関東地方震災時に於ける朝鮮人問題」,『現代史資料(6)』所収)。この際、死亡が災害の直接の結果か、殺傷事件によるものかは区別していない。しかし、日本人の死者、行方不明者へ一律で配布されたのが御下賜の1人16円であったことと対比すれば、200円という金額は政府が朝鮮人の被災を特異なものと捉えられていたことを示している。

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