ハンJ速報

日本の風土と文化を愛し、皇室を尊ぶ愛国系まとめブログです。本当の意味で日本を愛することの大切さを発信していきます

    日本軍

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    o0570040413036781753

    1 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2019/08/15(木) 06:33:40.89 ID:ixOFr+tR0●.net
    終戦の玉音放送後に出撃命令が出されたが、これは司令部の少佐が配下の部隊に独断で命令したため。 

    http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinyo-yasu.htm 
    終戦翌日の昭和20年8月16日午後七時頃、高知県須崎の第二十三突撃隊司令から「本土上陸の目的 
    をもって敵機動部隊が土佐沖を航行中、直ちに出撃してこれを撃滅すべし」との戦闘命令が、二十三突の震洋隊・回天隊へ発令された。

    (※まとめ補足)
    1878050

    終戦翌日の8月16日夕方。
    停戦命令が出ているはずの司令本部から出撃命令が下り、兵士全員が出撃準備に就いたその時。震洋に搭載されている火薬が爆発し、配備してあった他の震洋艇に 次々飛び火して、大爆発事故が発生。終戦を迎えた海軍兵士111名の命が 爆発事故によって、一瞬のうちに失われた。
    この爆発事故は 兵士の誤操作説はもちろん、
    降伏したことにより悠々と土佐沿岸に接近する連合国軍艦隊に一矢報いようと、指令部が独断で攻撃を指示した説。
    進駐した連合国軍に兵器を接収されるのを防ぐために、爆破処分による隠滅を行った説。
    など、様々な憶測が飛び交っていますが、事実は 終戦の翌日に 100人を超える尊い命が失われた事。 
    https://www.kotobus-express.jp/column/2018/12/post-85.html

    続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ref1458204547_200

    1: 風吹けば名無し 2019/08/04(日) 09:10:19.87 ID:t5APnWPy0
    ・10代20代の若者に「お国のため、陛下のために喜んで死んで来い」と言って特攻させる。なお、送り出した上官たちの大半は天寿を全うする
    ・「特攻は志願だった」といいつつも、辞退した人もひっそりと志願したということに変更して特攻させる
    ・戦車に勝つため、生身の兵士が爆弾を全身に巻きつけて戦車に突入し自爆させる
    ・訓練1週間の10代をゴムボートに爆弾積ませ敵艦に特攻させる。または、潜水艦服を着せ潜水させ棒の先に付けた機雷で敵艦を突き自爆させる
    ・自爆せず戻ってきた兵士はボコボコに殴り山奥に作った隔離施設で洗脳、自己批判させる
    ・アッツ島の戦い、レイテ島の戦い、インパール作戦など、兵士を虫けらのように扱う。そこで死んだ兵士のことを美化し神様として靖国に祀る
    ・南方に派遣された兵士はほとんどが戦闘ではなく餓死や病死
    ・本当の戦局は全て隠し、ひたすら勝利報道をして戦意高揚
    ・兵士たちの戦意が落ちてくると、現地に大量のヒロポン(覚せい剤)を軍が配布し服用させる。特に飛行士が飲まされた
    ・沖縄戦に派遣された日本軍、沖縄の女子供老人に手榴弾を渡し「わかってるな…」と呟く。なお、政府は日本軍による自決強要はなかったと主張
    ・憲兵が国民生活を厳しく監視。密告社会だった
    ・戦争に疑問を持つ者は非国民、売国奴、アカとレッテル貼り特高が拷問。好戦的な者は愛国者と讃えられる
    ・無理に戦争を継続した結果、戦没者の9割がなんと戦争最後の1年に死亡

    続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    AS20190714001098_comm

    1: みつを ★ 2019/07/15(月) 20:06:40.21 ID:ho4i0DfS9
    https://www.asahi.com/articles/ASM7F7DLPM7FUTIL01P.html

    新宿に謎の人骨100体 731部隊との関連なお調査
    佐藤純
    2019年7月15日13時54分

     30年前の1989年7月22日、東京都新宿区の厚生省(当時)戸山研究庁舎建設現場で多数の人骨が見つかった。細菌戦を研究した旧陸軍の731部隊と関係が深い防疫研究室があった場所だが、関連は不明なままだ。真相解明を求める市民団体は発見30年に合わせ、展示会や関係施設跡をめぐるフィールドワークを開く。

     区が鑑定を頼んだ専門家は100体以上のアジア人の骨と推定。数十年~100年、土の中にあったと判断した。大人の男性が多く、生前に刺したり切ったりされた跡や、死後に銃弾を受けたと考えられる骨もあったという。
     厚生労働省は防疫研究室が属した陸軍軍医学校の関係者らに問い合わせたが、人骨の由来は分からず、発見場所近くに設けた納骨施設に安置している。

     発見現場となった一帯には、終戦まで軍医学校があった。731部隊は戦時中、生物・化学兵器開発のため中国人らに人体実験をしたとされる。

     発見当時区議だった川村一之さん(67)は、731部隊の実験材料にされた人の遺骨が含まれている可能性があると考え、区や国に遺骨の保存と詳しい調査を働きかけてきた。研究者や教員らと作った「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」の代表を務め、調査を続けている。

     「究明する会」は、発見から30年になるのに合わせて、19~21日、現場近くの全国障害者総合福祉センター戸山サンライズで記念行事「人骨は訴える」を催す。解説パネルや関連資料など約50点を展示し、21日午後2時から川村さんが30年かけて調べてきたことを講演する。「遺骨の身元確認につながる動きを作り出したい」という。

    続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    maxresdefault (1)

    1: 樽悶 ★ 2019/06/28(金) 16:49:02.45 ID:18jY789b9
    大西瀧治郎(C)共同通信社
    https://c799eb2b0cad47596bf7b1e050e83426.cdnext.stream.ne.jp/img/article/000/257/084/1f338206454a78c876f5029c5a50251a20190627132237645.jpg

     先に述べたように、2大汚点のひとつである「特攻は全員が志願した」との言い方は、特攻を生み出した責任が隊員個人に転嫁されることを意味する。同時に隊員は「救国の英雄」呼ばわりされていく。国を挙げてのこの称賛は戦時下の日本社会がいかに歪んでいたかを我々に教えてくれる。

     昭和20年4月以後、沖縄を目ざす特攻は比島決戦のときに比べると著しく命中率が落ちた。学徒出身の搭乗員の技術が大幅にダウンしてしまったからだ。沖縄戦は天一号作戦といわれたが、4月、5月は「まるで特攻隊員の屍を積む」といわれるほど出撃が相次いだ。

     なぜ命を粗末にする作戦が続いたのであろうか。私はあえて2点を指摘しておきたい。特攻作戦は本土決戦を意識していたというのが第1。第2は国民を戦争による死に慣れさせるためだった。

     本土決戦、そして一億総特攻に慣れさせるには、連日のように特攻隊の死を国民に伝える必要があったのだ。大西瀧治郎(写真)が第1航空艦隊司令長官のポストから東京に戻り、軍令部の次長に就任したのも本土決戦に備えてのことだっただろう。その大西にある新聞記者が、「このような血染めの作戦を進めて、戦争にめどはあるのか」と尋ねている。大西はこう答えた。

    「本土決戦で日本人の5分の1が戦死する。そうするとアメリカも講和を言い出すであろう。そのときまで続けるんだ」

     つまり日本列島を血染めにしてしまうわけだ。当時の日本の人口は7000万人とされていたから、1400万人が特攻死することになる。そうなったらアメリカも講和を求めてくるだろうというのであった。

     大西は、講和になれば日本が勝ったことにはならないが、負けたことにもならないと豪語したという。実は大西に限らず、本土決戦派はいずれもこのような妄想にとりつかれていた。アメリカ軍の上陸地点に穴を掘って火薬を詰めたリュックを背負って隠れ、戦車が上陸してくるとリュックに火をつけて戦車にぶつかっていく。少年たちがそうして死んでいく。想像するだに身の毛がよだつ「一億総特攻」であった。

    2019/06/27 17:00
    https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/257084

    続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    AS20170906004042_commL

    久米島であった日本兵の虐殺事件や、集団投身自殺寸前で思いとどまった体験などを話す渡嘉敷一郎さん(右)と妻の政子さん=19日、東京都練馬区の自宅

    20190622-00000006-ryu-001-2-view

     【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。同じ久米島出身の妻政子さん(80)が住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けており、一郎さんも参加して語り始めた。本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。

     沖縄本島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。日本のポツダム宣言受諾後の8月18日、島にいた日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)の兵士に妻子と共に殺された。

     渡嘉敷さんは旧具志川村(現久米島町)仲泊の出身で、戦争中は50~60人で避難生活を送っていた。「ヒージャーミー(米国人)に殺される」との話が住民の間に広まっていった。米軍上陸後、母親の親戚と一緒に逃げていた渡嘉敷さんは、池に飛び込もうとしていた矢先、「もう戦争は終わったよ。もう死ぬことはないぞ」という仲村渠さんの呼び掛けを聞いた。「あれは西銘(集落)の明勇だ」と誰かが叫び、われに返った渡嘉敷さんは投身を思いとどまった。

     当時、島では日本軍の隊長からは「山に上がって来ない者は殺す」との命令が下されていた。上陸してきた米軍からは、日本兵が軍服を捨てて住民にまぎれこんでいることから「家に戻りなさい。戻らなければ殺す」と投降の呼び掛けが出ていたという。どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に住民は置かれていた。

     渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。

    ■ほかにも住民虐殺が…

     久米島では日本軍による住民虐殺がほかにも起きている。渡嘉敷さんの妻政子さん(80)=同村仲地出身=は「島の人も関わったとされタブー(禁忌)となってきたが、何らかの形にして事実として伝えていかないといけない」と東京で島の沖縄戦について語り続けている。

     日本兵による住民虐殺は当時から住民の間でうわさになった。政子さんは「大人たちが屋号で『どこどこの誰々が殺されたよ』『部落の方で異様なことが起こっているよ』と話していたのを聞いていた」と話す。

     戦後も虐殺があったと聞いた場所に来ると、カヤを結んだ魔よけを手に通ったものだった。「子ども心にも、その時のことが思い出され、たまらない気持ちになった」。大人になって久米島の戦争の本を読んで、「ああ、あの話はそうだったのか」と記録と記憶がつながっていった。

     小学校1年で教えてくれた教諭が、島に配置されていた中野学校出身で「上原敏雄」を名乗る残置工作員だった。ある時、学校に米軍の憲兵が来て、2人で教諭を羽交い締めにして軍用車両で連行していった。その後の消息は知らないという。

     住民虐殺というテーマを語り継ぐのは重いため、得意の三線も交えて伝えている。島の悲劇にあえて向き合う夫婦。「今も残された者も重荷を背負いながら生きている」との思いを背に語り継いでいる。

     今年の慰霊の日は午後2時から、東京都練馬区立男女共同参画センター「えーる」で、久米島の沖縄戦について政子さんと一郎さんが語る会が催される。(滝本匠)

    ◆久米島における沖縄戦での住民虐殺

     久米島に駐留した日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)が、6月26日の米軍上陸後にスパイ嫌疑で住民20人を殺害した。米兵に拉致された住民を「スパイ」と見なし、目隠しのまま銃剣で刺し、家に火をつけて焼き払うなどした。朝鮮人家族も犠牲になった。島には残置工作員が具志川村に上原敏雄、仲里村に深町尚親を名乗る2人(いずれも偽名)が小学校に配置されており、住民虐殺への関与が疑われている。

    6/22(土) 10:09配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190622-00000006-ryu-oki

    続きを読む

    このページのトップヘ