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    日本軍

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    1: 樽悶 ★ 2019/05/19(日) 19:02:02.09 ID:PAKtTQVW9
    ※省略

     日本の太平洋戦争での敗戦の原因、特にインパール作戦のような兵站を軽視した戦いが実行された背景には、石田三成の存在があるのではないか……。

     こんなふうに書くと三成の子孫やファンに怒られるかもしれないが、この家人の出来事のあと、歴史上のイメージで真っ先に思い出したのがこの“太平洋戦争三成責任論”だった。

    ※省略

     三成について『戦国武将合戦辞典』(吉川弘文館)は、「武将ではあるが、その本領は軍事よりもむしろ吏務に長じ、五奉行中随一の実力者として政務の処理にあたり、内政面での功績が大きかった」としている。

     その一方で三成につきまとうイメージは戦下手。映画にもなった『のぼうの城』(和田竜、小学館)で三成は、水攻めなどを用いて忍城を攻めるも、結局落とすことができず、まさに戦闘では役に立たないような武将として描かれている。

     さらに三成のイメージを悪くしている一つに、文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮侵略)での軋轢だ。奉行として渡海するなどした三成だったが、前線で戦うことはなく、その役目は食糧の輸送や戦闘状況をチェックしての秀吉への報告だった。報告の中には三成が処分を求めて実際に処罰されてしまった武将もいたものだから、加藤清正や黒田長政ら前線指揮官の武人派からは「ちくり」だと怒りを買ってしまう。

    ※省略

     ではなぜ、三成が太平洋戦争の敗戦に影響しているのかというと、またしても『戦国武将合戦辞典」の記述を拝借したい。戦闘能力が高かったとの記述はないが、「戦陣に臨んでも兵站関係や占領地の処理にその手腕を発揮した』とある。

    ■文禄・慶長の役でも兵糧が滞ることはなかった

     兵站とは、戦闘地帯の後方にあって食糧や軍需品の供給・補給などにあたる活動のことだ。いくら屈強な兵士を集めても腹が減っては力も出ない。どんなに武器の扱いに熟練していても、肝心の銃や戦闘機がなければ最新鋭のアメリカ軍には太刀打ちできない。

     三成はこうした兵站、つまりロジに長けていたというのだ。実際に、当時は前代未聞とされた20万以上もの軍勢を動員した九州攻めで兵站の役割をこなし、海を渡った文禄・慶長の役でも兵糧が滞ることはなかったとされる。

    ■「餓島」とも呼ばれたガダルカナル島

     太平洋戦争では多くの日本軍兵士や軍属が太平洋の島々などで餓死したとされる。その事例として挙げられるのが、インパール作戦や、「餓島」とも呼ばれたガダルカナル島での戦いだ。太平洋戦争全体の全餓死者数の公式記録はないものの、ある研究では200万人を超える軍人軍属の戦没者のうち、餓死・戦病死者は140万人にも上るという推察もあるぐらいだ。

     この三成と鋭く対立したことで知られる加藤清正は、日清戦争や日露戦争で清正を祀る神社や寺で戦勝祈願が行われるなど「軍神清正」としてあがめられることになったという。清正は朝鮮での虎退治や餓死寸前にまで追い込まれながら起死回生の勝利をあげた蔚山城の戦いなどの武功もあり、猛将と描かれることが多い(実際には熊本城築城や治水など行政手腕にも優れていたのだが……)。

     まさか、「清正のように食糧がなくても気力で勝てる」と昭和の日本軍が宣伝したことはないだろうが、現在でも陰湿なキャラ設定が多い文治派武将と比べて、清正のような猛将型武将は豪放磊落とどこかいいイメージで描かれることがしばしばだ。

     関ヶ原の戦いを契機として、戦争では勇ましさが好まれ、逆に三成のような兵站の重要性は省みられなくなったのではないだろうか。豊臣政権の五奉行のうち三成を含む三人が敗者となり、五奉行ではないが三成と同様に輸送や兵站で優れ、西軍の主力を構成した大谷吉継や小西行長も三成と運命を共にしたことも、兵站軽視思想に拍車をかけたのかもしれない。

     小西行長を描いた『鉄の首枷』(中公文庫)の中で遠藤周作は、「主計(会計)将校の孤独」という章をわざわざ設けて、「輜重(武器、兵糧などの軍需物資)部隊の指揮官であることが前線将校の侮蔑を受ける」と記している。

     これは、明治維新以降、軍隊が近代化してからも、陸軍士官学校、海軍兵学校など前線指揮官ことこそが花形であり、遠藤は「主計将校を幼年学校や陸士出将校たちがむしろ軽侮の眼で見たのは日本陸軍の伝統」として兵站を扱う人材は脇役であり続けたことと重ね合わせている。(続きはソース)

    2019年5月19日
    http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16169

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    1: 樽悶 ★ 2019/05/07(火) 00:09:51.43 ID:WaWZu5pJ9
    6月に開館予定のインパール平和資料館(日本財団提供)
    0060801000392762

    インパール作戦の悲惨さを後世に残そうと史料提供を呼び掛ける和田真さん=東京都
    https://www.niigata-nippo.co.jp/newsfile/image/0060801000392763.jpg

     太平洋戦争中、日本軍の「インパール作戦」が展開されたインド北東部・インパールに6月、戦争の悲惨さを後世に伝える平和資料館が開館する。日本財団(東京)が建設に全面協力し、スタッフで妙高市出身の和田真さん(38)らが展示史料の収集を進めている。連合国軍に比べて日本軍の史料が圧倒的に少ない中、和田さんらは本県の関係者に史料の提供を呼び掛けている。

     インパール作戦は1944年3~7月、連合国軍の中国支援への拠点だったインパールの攻略を目的に行われた。食糧や武器の補給を軽視した上、険しい山越えなど無謀な着想に基づいていた。日本兵は体力を消耗して感染症や飢餓に苦しみ、戦死者や餓死者は3万人以上とされる。

     平和資料館の建設は、インパールがあるマニプール州の観光協会が発案。協力要請を受けた日本財団が総工費5千万円を負担し、2017年秋に工事が始まった。

     平屋建てで、史料展示のほか、戦後復興の歩みや、現地の文化を紹介するコーナーが入る予定。和田さんらは、4月から展示史料の収集を進めている。

     連合国軍側の史料は少しずつ増えているが、日本軍側は現時点で1府4県から7点ほどしか集まっていない。

     インパール作戦には、上越の高田歩兵第58連隊などが参加した。本県にも従軍した元兵士やその遺族、親族など関わりのあった人は少なくないとみられる。和田さんは「新潟県内になお史料が残っている可能性がある」と指摘する。

     和田さんは高田の歩兵連隊が赴いたインパール北部のコヒマを訪ねたことがある。「とてつもない急斜面で道もない。日本軍の壕(ごう)跡も残っていた。同郷の人たちがいかに悲惨な状況にいたか思い知らされた」と振り返る。

     インパール作戦から75年の歳月が流れ、元兵士や親族も高齢化が進む。「資料館では従軍した一人一人のストーリーも伝えたい。写真でも手記でも、作戦に関わるものを一点でも多く展示したい」と和田さん。

     資料館は現地時間の6月22日に開館予定だが、開館後も随時、史料を受け付ける。和田さんは「作戦の無謀さ、悲惨さを後世に伝えていくために、どんな史料や情報でもいいので寄せてほしい」としている。

    新潟日報 2019/05/03 12:10
    https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20190503466838.html

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    ogp

    1 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2019/04/26(金) 21:56:54.79 ID:rWVkXimf0.net
    https://www.tbsradio.jp/363390 
    36:14~ より 

    テキサス親父マネージャー、藤木さん 
    「軍は朝鮮の商社に頼んで慰安所を作りたいと。 
    それを朝鮮の商社が朝鮮半島の、ブローカに頼んで人を集める。 

    この人達は、騙した例はあったと思います。強制的なことがあったと思う。 
    そういうことを知った時点で、軍もしくは政府から、「こう言う事が起きているので、厳しく取り締まるように」という、命令が出てるんです。 
    その書類(資料)も、あるんです。 
    それを、中央大学の吉見義明先生が持ってきて」 
      
            
    吉見義明教授 
    「そういう資料の解釈は完全に間違っていると思います(苦笑) 
    何故かと言うと、”内地に於いて”という文言があります。 
    ”日本国内では、国際条約もあるし、刑法の制約もあるので、それに違反しないので注意しろ”と言ってるに過ぎない。 
    朝鮮や台湾でも同じだったかということは別問題なんです。」
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    1 :
    ロデオガールメン.avi :2019/04/22(月) 17:13:52.73 ID:B++Qs32M0●.net 
    https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47986990 

    第2次世界大戦中の1942年、オーストラリアの女性看護師の一団が、日本軍兵士たちによって殺害された「バンカ島虐殺事件」。 
    いま、一人の歴史研究者が入手した証拠から、ある事象が浮かび上がりつつある。看護師たちは殺害前、日本兵たちに性的暴行を受け、オーストラリア当局がそれをひた隠しにしてきたというのだ。 
    「この真実を発掘し、ついに公表するには、複数の女性の力が必要だった」 

    軍事史を研究するリネット・シルヴァーさんがこう言う「真実」とは、1942年2月にインドネシア・バンカ島で、海の中へ歩かされ、機関銃で銃撃されたオーストラリア人看護師22人の身に起きたことを指す。 
    看護師たちは1人を除いて全員殺された。 

    「それだけでぞっとした。でも、殺害前に強姦されていたなんて、語るにはむご過ぎる真実だった」 
    シルヴァーさんは、新著で詳しく書いた証言について、こう話す。 

    「オーストラリア軍の高官たちは、悲しみに暮れる遺族たちに、家族が強姦されていたという不名誉を与えたくなかった。 
    恥ずべきことだと思われていたので。 
    レイプは死よりもひどい運命と考えられ、ニュー・サウス・ウェールズ州では1955年まで(加害者が)絞首刑による極刑で処罰されていた」
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    mig (2)

    1: ガーディス ★ 2019/03/26(火) 23:20:39.00 ID:cwKl+me09
    【3月26日 AFP】マレーシアで、第2次世界大戦(World War II)の慰霊碑が修復され、旧日本軍兵士3人を「英雄」とたたえる看板が設置された。これに対して怒りの声が噴出し、撤去を求める声が上がっている。

     1940年代初めの日本による東南アジア占領については、日本政府が賠償を行い、かつての敵と友好関係を築いた後にも、苦い記憶は依然残っている。

     マレーシア当局は観光振興の目的で、日本から資金提供を受け、1941年に北部クダ(Kedah)州の州都アロースター(Alor Setar)に建立され、長い間放置されてきた石碑を修復した。

     この石碑はもともと、英国をはじめとする連合国軍を遮断するため、戦略的な要衝だった橋の確保に当たって戦死した兵士3人をたたえて日本が建立したものだった。

     しかし先週落成した修復後の慰霊碑の看板には、「アロースター橋を制した日本人の英雄3人の歴史」と記されていた。

     華人系の政党、マレーシア華人協会(MCA)のリム・スウィー・ボク(Lim Swee Bok)氏は26日、約15人の支持者らと共に北部ペナン(Penang)州にある日本領事館を訪れ、慰霊碑の撤去を求める書簡を手渡した。

     リム氏はAFPに対し、「日本による占領の苦痛に満ちた時代を思い出させるだけだ」と語った。

     地元スター(Star)紙は、慰霊碑の周囲に「日本兵は英雄ではない」「地元住民を殺害し、レイプし、斬首した」「日本兵は残虐だ」と書かれた大きな赤い横断幕5枚が掲げられた写真を掲載した。

     クダ州の観光委員会議長は「誤訳」を謝罪。看板は撤去したものの、慰霊碑自体の解体要求には応じず、「石碑は1941年以来ずっとそこにあるものだ。さらにわれわれはクダ州により多くの観光客誘致を目指しており、史跡の維持管理の取り組みの一環だ」と説明した。(c)AFP
    https://www.afpbb.com/articles/-/3217673?cx_amp=all&act=all
    https://www.thesundaily.my/local/monumental-blunder-in-honouring-japanese-invaders-updated-CN719510
    そうい

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