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日本の風土と文化を愛し、皇室を尊ぶ愛国系まとめブログです。本当の意味で日本を愛することの大切さを発信していきます

    歴史

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    1: みつを ★ 2019/07/15(月) 20:06:40.21 ID:ho4i0DfS9
    https://www.asahi.com/articles/ASM7F7DLPM7FUTIL01P.html

    新宿に謎の人骨100体 731部隊との関連なお調査
    佐藤純
    2019年7月15日13時54分

     30年前の1989年7月22日、東京都新宿区の厚生省(当時)戸山研究庁舎建設現場で多数の人骨が見つかった。細菌戦を研究した旧陸軍の731部隊と関係が深い防疫研究室があった場所だが、関連は不明なままだ。真相解明を求める市民団体は発見30年に合わせ、展示会や関係施設跡をめぐるフィールドワークを開く。

     区が鑑定を頼んだ専門家は100体以上のアジア人の骨と推定。数十年~100年、土の中にあったと判断した。大人の男性が多く、生前に刺したり切ったりされた跡や、死後に銃弾を受けたと考えられる骨もあったという。
     厚生労働省は防疫研究室が属した陸軍軍医学校の関係者らに問い合わせたが、人骨の由来は分からず、発見場所近くに設けた納骨施設に安置している。

     発見現場となった一帯には、終戦まで軍医学校があった。731部隊は戦時中、生物・化学兵器開発のため中国人らに人体実験をしたとされる。

     発見当時区議だった川村一之さん(67)は、731部隊の実験材料にされた人の遺骨が含まれている可能性があると考え、区や国に遺骨の保存と詳しい調査を働きかけてきた。研究者や教員らと作った「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」の代表を務め、調査を続けている。

     「究明する会」は、発見から30年になるのに合わせて、19~21日、現場近くの全国障害者総合福祉センター戸山サンライズで記念行事「人骨は訴える」を催す。解説パネルや関連資料など約50点を展示し、21日午後2時から川村さんが30年かけて調べてきたことを講演する。「遺骨の身元確認につながる動きを作り出したい」という。

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    0909

    1: 風吹けば名無し 2019/07/07(日) 18:25:36.76 ID:/6DL5UpWa0707
    宮内庁「立ち入り禁止です、今後も一切調査はダメです」
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190706-00000537-san-soci
    世界文化遺産への登録が6日、決まった「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)の
    構成資産には、世界最大級の墳墓である「仁徳天皇陵古墳」(大山=だいせん=古墳)
    など宮内庁が管理する陵墓29基が含まれる。今後参拝客の増加が見込まれるが、
    宮内庁は「世界遺産となっても皇室祭祀(さいし)が行われる『祈りの場』に変わりはない」と
    強調。「墳丘内部への立ち入りを認めることはなく、保存管理に一層努力する」と静観している。

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    久米島であった日本兵の虐殺事件や、集団投身自殺寸前で思いとどまった体験などを話す渡嘉敷一郎さん(右)と妻の政子さん=19日、東京都練馬区の自宅

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     【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。同じ久米島出身の妻政子さん(80)が住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けており、一郎さんも参加して語り始めた。本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。

     沖縄本島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。日本のポツダム宣言受諾後の8月18日、島にいた日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)の兵士に妻子と共に殺された。

     渡嘉敷さんは旧具志川村(現久米島町)仲泊の出身で、戦争中は50~60人で避難生活を送っていた。「ヒージャーミー(米国人)に殺される」との話が住民の間に広まっていった。米軍上陸後、母親の親戚と一緒に逃げていた渡嘉敷さんは、池に飛び込もうとしていた矢先、「もう戦争は終わったよ。もう死ぬことはないぞ」という仲村渠さんの呼び掛けを聞いた。「あれは西銘(集落)の明勇だ」と誰かが叫び、われに返った渡嘉敷さんは投身を思いとどまった。

     当時、島では日本軍の隊長からは「山に上がって来ない者は殺す」との命令が下されていた。上陸してきた米軍からは、日本兵が軍服を捨てて住民にまぎれこんでいることから「家に戻りなさい。戻らなければ殺す」と投降の呼び掛けが出ていたという。どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に住民は置かれていた。

     渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。

    ■ほかにも住民虐殺が…

     久米島では日本軍による住民虐殺がほかにも起きている。渡嘉敷さんの妻政子さん(80)=同村仲地出身=は「島の人も関わったとされタブー(禁忌)となってきたが、何らかの形にして事実として伝えていかないといけない」と東京で島の沖縄戦について語り続けている。

     日本兵による住民虐殺は当時から住民の間でうわさになった。政子さんは「大人たちが屋号で『どこどこの誰々が殺されたよ』『部落の方で異様なことが起こっているよ』と話していたのを聞いていた」と話す。

     戦後も虐殺があったと聞いた場所に来ると、カヤを結んだ魔よけを手に通ったものだった。「子ども心にも、その時のことが思い出され、たまらない気持ちになった」。大人になって久米島の戦争の本を読んで、「ああ、あの話はそうだったのか」と記録と記憶がつながっていった。

     小学校1年で教えてくれた教諭が、島に配置されていた中野学校出身で「上原敏雄」を名乗る残置工作員だった。ある時、学校に米軍の憲兵が来て、2人で教諭を羽交い締めにして軍用車両で連行していった。その後の消息は知らないという。

     住民虐殺というテーマを語り継ぐのは重いため、得意の三線も交えて伝えている。島の悲劇にあえて向き合う夫婦。「今も残された者も重荷を背負いながら生きている」との思いを背に語り継いでいる。

     今年の慰霊の日は午後2時から、東京都練馬区立男女共同参画センター「えーる」で、久米島の沖縄戦について政子さんと一郎さんが語る会が催される。(滝本匠)

    ◆久米島における沖縄戦での住民虐殺

     久米島に駐留した日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)が、6月26日の米軍上陸後にスパイ嫌疑で住民20人を殺害した。米兵に拉致された住民を「スパイ」と見なし、目隠しのまま銃剣で刺し、家に火をつけて焼き払うなどした。朝鮮人家族も犠牲になった。島には残置工作員が具志川村に上原敏雄、仲里村に深町尚親を名乗る2人(いずれも偽名)が小学校に配置されており、住民虐殺への関与が疑われている。

    6/22(土) 10:09配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190622-00000006-ryu-oki

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    1: 樽悶 ★ 2019/05/19(日) 19:02:02.09 ID:PAKtTQVW9
    ※省略

     日本の太平洋戦争での敗戦の原因、特にインパール作戦のような兵站を軽視した戦いが実行された背景には、石田三成の存在があるのではないか……。

     こんなふうに書くと三成の子孫やファンに怒られるかもしれないが、この家人の出来事のあと、歴史上のイメージで真っ先に思い出したのがこの“太平洋戦争三成責任論”だった。

    ※省略

     三成について『戦国武将合戦辞典』(吉川弘文館)は、「武将ではあるが、その本領は軍事よりもむしろ吏務に長じ、五奉行中随一の実力者として政務の処理にあたり、内政面での功績が大きかった」としている。

     その一方で三成につきまとうイメージは戦下手。映画にもなった『のぼうの城』(和田竜、小学館)で三成は、水攻めなどを用いて忍城を攻めるも、結局落とすことができず、まさに戦闘では役に立たないような武将として描かれている。

     さらに三成のイメージを悪くしている一つに、文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮侵略)での軋轢だ。奉行として渡海するなどした三成だったが、前線で戦うことはなく、その役目は食糧の輸送や戦闘状況をチェックしての秀吉への報告だった。報告の中には三成が処分を求めて実際に処罰されてしまった武将もいたものだから、加藤清正や黒田長政ら前線指揮官の武人派からは「ちくり」だと怒りを買ってしまう。

    ※省略

     ではなぜ、三成が太平洋戦争の敗戦に影響しているのかというと、またしても『戦国武将合戦辞典」の記述を拝借したい。戦闘能力が高かったとの記述はないが、「戦陣に臨んでも兵站関係や占領地の処理にその手腕を発揮した』とある。

    ■文禄・慶長の役でも兵糧が滞ることはなかった

     兵站とは、戦闘地帯の後方にあって食糧や軍需品の供給・補給などにあたる活動のことだ。いくら屈強な兵士を集めても腹が減っては力も出ない。どんなに武器の扱いに熟練していても、肝心の銃や戦闘機がなければ最新鋭のアメリカ軍には太刀打ちできない。

     三成はこうした兵站、つまりロジに長けていたというのだ。実際に、当時は前代未聞とされた20万以上もの軍勢を動員した九州攻めで兵站の役割をこなし、海を渡った文禄・慶長の役でも兵糧が滞ることはなかったとされる。

    ■「餓島」とも呼ばれたガダルカナル島

     太平洋戦争では多くの日本軍兵士や軍属が太平洋の島々などで餓死したとされる。その事例として挙げられるのが、インパール作戦や、「餓島」とも呼ばれたガダルカナル島での戦いだ。太平洋戦争全体の全餓死者数の公式記録はないものの、ある研究では200万人を超える軍人軍属の戦没者のうち、餓死・戦病死者は140万人にも上るという推察もあるぐらいだ。

     この三成と鋭く対立したことで知られる加藤清正は、日清戦争や日露戦争で清正を祀る神社や寺で戦勝祈願が行われるなど「軍神清正」としてあがめられることになったという。清正は朝鮮での虎退治や餓死寸前にまで追い込まれながら起死回生の勝利をあげた蔚山城の戦いなどの武功もあり、猛将と描かれることが多い(実際には熊本城築城や治水など行政手腕にも優れていたのだが……)。

     まさか、「清正のように食糧がなくても気力で勝てる」と昭和の日本軍が宣伝したことはないだろうが、現在でも陰湿なキャラ設定が多い文治派武将と比べて、清正のような猛将型武将は豪放磊落とどこかいいイメージで描かれることがしばしばだ。

     関ヶ原の戦いを契機として、戦争では勇ましさが好まれ、逆に三成のような兵站の重要性は省みられなくなったのではないだろうか。豊臣政権の五奉行のうち三成を含む三人が敗者となり、五奉行ではないが三成と同様に輸送や兵站で優れ、西軍の主力を構成した大谷吉継や小西行長も三成と運命を共にしたことも、兵站軽視思想に拍車をかけたのかもしれない。

     小西行長を描いた『鉄の首枷』(中公文庫)の中で遠藤周作は、「主計(会計)将校の孤独」という章をわざわざ設けて、「輜重(武器、兵糧などの軍需物資)部隊の指揮官であることが前線将校の侮蔑を受ける」と記している。

     これは、明治維新以降、軍隊が近代化してからも、陸軍士官学校、海軍兵学校など前線指揮官ことこそが花形であり、遠藤は「主計将校を幼年学校や陸士出将校たちがむしろ軽侮の眼で見たのは日本陸軍の伝統」として兵站を扱う人材は脇役であり続けたことと重ね合わせている。(続きはソース)

    2019年5月19日
    http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16169

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    1: ガーディス ★ 2019/05/20(月) 10:42:53.93 ID:7RCUe58j9
    https://twitter.com/cracjp/status/1129997593130524673
    #長谷川豊、ありえん。「日本には江戸時代にあまり良くない歴史がありました。士農工商の下に穢多非人、
    人間以下の存在がいると。でも人間以下と設定された人たちも、性欲などがあります。当然乱暴なども働きます。
    一族野盗郎党となって(続く) #日本維新の会

    https://twitter.com/cracjp/status/1129997937604517888
    (続き)十何人で取り囲んで暴行しようとしたときに、侍は大切な妻と子供を守るために刀を抜くしかなかった。
    でも刀を抜いたときに、どうせ死ぬんです、相手はプロなんだから、犯罪の(以下略)」 #日本維新の会

    32: 名無しさん@1周年 2019/05/20(月) 10:50:27.21 ID:D/xYsGE40
    元動画
    https://youtu.be/xxNG8U637xw


    17分50秒当たりから
    日本には江戸時代にあまり良くない歴史がありました。士農工商の下にエタ・ヒニン、人間以下の存在がいると。
    でも人間以下と設定された人たちも性欲などがあります。当然、乱暴などもはたらきます。一族、夜盗郎党となって十何人で取り囲んで暴行しようとした時に、侍は大切な妻と子供を守るだけのためにどうしたのか。

    侍はもう刀を抜くしかなかった。でも刀を抜いた時に。どうせ死ぬんです。相手はプロなんだから、犯罪の。もうブン回すしかないんですよ。ブンブンブンブン刀ブン回して時間稼ぎするしかないんです。どうせ死ぬんだから。

    「もう自分はどうせ死んだとしても1秒でも長く時間を稼ぐから、大切な君だけはどうか生き残ってほしい。僕の命は君のものだから、僕の大切な君はかすり傷ひとつ付けない」といって振り回した時に一切のかすり傷がつかないのが二尺六寸の刀が届かない三尺です。「女は三尺下がって歩け」、愛の言葉です。

    108: 名無しさん@1周年 2019/05/20(月) 11:02:50.82 ID:h1HDEF3f0
    元動画みたが

    台本なくその場思いついたことで喋ってるから
    (アナ出身なのでトークに自信があるから台本に頼らないとみた)
    まあとっちらかってるね

    1の部落のことは元々テーマと全く関係がなく
    テーマは「戦前戦後日本人はアメリカ兵からの強姦から日本女性を守らねばならなかった」だ
    それで、昔サムライが部落民の強姦から女性を守っていたようにね
    という流れで1が一瞬だけ語られてる (動画17:40~)
    動画途中でリタイヤしたが愛国保守系動画と言える内容
    (まとめ補足)
    ご本人様の言い分
    本人ブログ
    http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/53383115.html
    最近、ツイッターなどでまた新しい切り取りをさらして共産党支持者を中心とした輩たちが喜んでいるようです。
    あとは弁護士先生に任せて、僕は前に進みます。
    相手にしていられませんしね。
    ただ…
    本当にやってて恥ずかしくないのでしょうか。実名をさらさずに、長谷川をバカにすることで仲間がいると思いたいのでしょうかね。僕の講演会の映像を切り取って、「差別だー」と言ってるそうですが、呆れ果てます。僕の講演会にはかつて何人もの共産党員の方々が、僕の上げ足をとるために参加してきています。なかには「妨害をする!」と予告して息巻いてくる方もいらっしゃいます。そんな皆さんが全員、ぐうの音も出せずにすごすごと帰っていきます。事実しか話さないからです。拡散してる方、詳しくは僕の講演会で話をしていますので、良ければ聞きに来てください。ま、こないだろうけれど。バカにしたいだけなんでしょうから。もちろん僕は現在、週に2~3回のペースで様々な場所で講演を続けていますが、「長谷川は差別的な表現をした」なんて声はかつて出席したすべての方から一度も伺っておりません。
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